【四天王】卓也努力勝利のwiki経歴!芸歴18年の笑いと涙の物語を総まとめ!

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お笑いコンビ「四天王」の卓也努力勝利さんに突然の訃報が伝えられ、ファンや関係者の間に衝撃と深い悲しみが広がっています。

卓也努力勝利さんは、芸名が示すとおり“努力”と“勝利”を信条に、18年間にわたり舞台やテレビで笑いを届けてきました。

その真摯な姿勢と温かな人柄は、多くの人に愛されてきました。

本記事では、卓也努力勝利さんの18年にわたる芸歴を「笑いと涙の物語」として振り返ります。

  • 【四天王】卓也努力勝利のwikiプロフィール
  • 芸歴18年の笑いと涙の物語を総まとめ!
  • 卓也努力勝利のネタ作りの裏側とお笑い哲学
  • 卓也努力勝利が残したメッセージ

卓也さんの軌跡を、一緒に辿っていきましょう。

【四天王】卓也努力勝利のwikiプロフィール

出典元:mdpr.jp

卓也努力勝利(お笑いコンビ「四天王」)は、ボケ・ネタ担当の芸人です。

本名は加我卓也。

2007年からの芸歴18年で、2017年にジェットと「ゆかりてるみ」を結成し、後に「四天王」へ改名。

M-1グランプリ2020での敗退を機にコントへ転換し、2022年には「ビートたけし杯お笑い日本一」で優勝しました。

彼のネタ作りは「直球勝負で笑いを取りたい」という“ロックな哲学”に貫かれ、高円寺で間借りカレー店「スパイスカアチャン」を経営するなど、お笑い以外にも多才な一面を持っていました。

プロフィール
  • 本名:加我 卓也(かが たくや)
  • 生年月日: 1986年11月17日
  • 出身地: 北海道恵庭市
  • 担当: ボケ、ネタ作り
  • 趣味: DJ、音楽フェスに行くこと、漫画、アニメ、音楽鑑賞、漬け物を漬ける、90年代J-POP
  • 特技: 水泳(元インストラクター)、家庭料理、女子会
  • 資格: 剣道2段
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芸歴18年の笑いと涙の物語を総まとめ!

卓也努力勝利さんの芸歴は、2007年にまで遡ります。

彼はどのようにしてお笑いの道に進み、「四天王」を結成するに至ったのでしょうか。

札幌での挑戦と解散、そしてピン芸人時代(2007年〜2015年)

卓也努力勝利さんの芸人としての第一歩は、2007年にさかのぼります。


専門学校在学中、高校時代のアルバイト先の先輩だった正源亜弓さんを誘い、男女コンビ「カプセルコーポレーション」を結成しました。

コンビは札幌吉本のオーディションに合格し、地元の舞台でも頭角を現していきます。


特に、トム・ブラウンが札幌で行った初単独ライブでは前説を任されるなど、順調なスタートを切っります。

出典元:X

その後、コンビ名を「加我正源」に改名し、2011年には同じ事務所のピン芸人・樋渡太一さんを加えてトリオ「サンモジ」を結成。


サンモジとしての活動は成果も大きく、2013年度の「笑道」頂上決戦では見事に優勝。

さらに「歌ネタ王決定戦2013」では準決勝に進出し、STVラジオでは冠番組を持つまでに成長しました。

しかし、2014年には正源亜弓さんが脱退してコンビとして活動していました。

「笑道」(UHB)でも度々優勝を果たし、テレビやラジオでじわりじわりと活躍中のお笑い芸人・サンモジ。これまで3人で活動してきたが、今夏からは心機一転、たくや・たいちの2人組で再出発することに。

出典元:arukita.com

(写真)左/たくやさん、右/たいちさん

インタビュー記事:高校時代のエピソード
  • 高校時代の初めての朝刊配達アルバイトで台風に遭い、自転車が倒れて新聞を水浸しにし、一軒一軒謝って回った。
  • 部活を引退してからは中華料理店でバイトしていた。
  • 中華料理のバイトで元相方(正源亜弓)と出会う。
  • 高校卒業後は、水泳のインストラクターをしたり鍼灸の専門学校に通っていた

ここで元相方に出会って、お笑い芸人になるきっかけが出来たんですよ。

順調に見えたお笑い活動でしたが、翌2015年にはサンモジを解散することとなりました。


その後、札幌吉本のピン芸人だったスズサクさん(現・怪談師)と「白石パワフルレディース」を結成します。

しかし、M-1グランプリで1回戦敗退となり、ほどなくして解散しました。

この時点で卓也さんは札幌吉本を退社。


以降はフリーとして男女コンビ「天才パイン」を組むも解散し、しばらくはピン芸人として活動を継続。

やがて、東京で本格的にお笑いに取り組みたいという強い思いから、STVラジオ「マッスルファイターズ」などのレギュラー番組をすべて終了。

2016年に拠点を東京へと移し、ピン芸人としてSMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)に所属しました。

札幌での8年間は、試行錯誤と挑戦の連続だった一方で、彼の芸人としての基盤と経験値を大きく育てた時期でもありました。

東京進出と「ゆかりてるみ」の結成(2016年〜2020年)

2016年、札幌から上京した卓也努力勝利さんは、浅草リトルシアターでピン芸人として活動していたジェットさんと出会います。


同郷とは知らぬまま卓也さんが声をかけ、2017年4月10日にコンビ「ゆかりてるみ」を結成

名前の由来は、2人の母親の名前を組み合わせたものでした。

当初、卓也さんは個人の芸名を「たくやA5ランク」としていましたが、後に「卓也」に改名。

所属はSMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)。

結成初期には北澤圭佑さんを加えたトリオ構想もありましたが、直前で取りやめ、2人での活動が本格化します。

ライブ活動では、SMA HEET Projectの最下位クラスからスタートし、最上位の「大将」まで勝ち上がりました。


SMA NEET Projectでも最上位クラスの「金のタマゴ」まで駆け上がり、2019年には「ビートたけし杯 漫才日本一」で決勝に進出。


同年6月には、ビクターミュージックアーツへ移籍しました。

この時期は、東京での確かな実績を積み重ねた4年間となりました。

「四天王」への改名と躍進、そして突然の別れ(2020年〜2025年)

コンビとしての方向性に悩んだ末、卓也努力勝利さんとジェットさんは、大きな転機を迎えることになります。

「ゆかりてるみ」は、2020年にM-1グランプリに出場しますが1回で戦敗退します。

出典元:X

1回戦敗退を受けて、卓也努力勝利さんが解散を提案。


しかし、ジェットさんの引き止めにより2人は改めて話し合いを重ね

「本当に面白いと思うことをやろう」と決意。


ネタの主軸を漫才からコントへと変更し

2020年11月18日にはコンビ名を「ゆかりてるみ」から「四天王」へと改名しました。

改名後、「四天王」はライブシーンで急速に頭角を現します。


2021年には地下バトルライブで常に上位に食い込むようになり

「キングオブコント2021」では初の準々決勝進出を果たします。


また、同年10月には「あらびき団」の配信企画「あら-1グランプリ」にも出演。


「ジャズバー」をテーマにしたコントで挑戦しましたが

ネタ修正部分を東野幸治さんに指摘され惜しくも勝ち上がりはなりませんでした。

その後も快進撃は続き、2022年2月8日には

「第四回江戸まちたいとう芸楽祭 ビートたけし杯 お笑い日本一」で優勝。


同年11月22日には地元・札幌の演劇専用小劇場BLOCHで

12月16日には東京・北沢タウンホールにて第5回単独ライブ「なにものでもない」を開催。


札幌での凱旋公演は満員御礼、東京公演も多くの観客と芸人仲間が来場し、いずれも大成功となりました。

2023年2月には松竹芸能に所属。


M-1グランプリ2024では初の3回戦進出を果たすなど

さらなる活躍が期待される中で、突然の出来事が訪れます。

2025年6月12日、卓也努力勝利さんが体調不良により休養と入院を発表。


そしてそのわずか2日後、6月14日に脳幹梗塞のためご逝去されました。

享年38。


この訃報は、同月19日、松竹芸能の公式サイトを通じて公表されました。

卓也努力勝利さんは、芸に対して常に真剣で、舞台にも仲間にも全力を注いだ芸人でした。


その存在は、観る人に笑いと感動を与え、多くの人々の心に深く刻まれ続けています。

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卓也努力勝利のネタ作りの裏側とお笑い哲学

卓也努力勝利さんは、「四天王」のネタ作りを一手に引き受けていました。

彼の生み出すネタには、どのような哲学が込められていたのでしょうか。

卓也努力勝利のネタ作りの流儀

彼のネタ作りは、決して流行を追うようなものではありませんでした。

noteの記事「芸人落書 ~コメディアン グラフィティ~」の中で、卓也さんはこのように語っています。

「俺たちのネタは複雑なことをせず、直球勝負で笑いを取りたいからロックな感じで行きたいんだよね。」

この言葉からは、彼の芸に対する強いこだわりと、妥協しない姿勢が伺えます。

観客にストレートに笑いを届けたいという純粋な思いが、彼のネタの根底には常にあったのでしょう。

笑いの殿堂で輝き続けた18年:卓也努力勝利が残したメッセージ

卓也努力勝利さんは、その芸歴18年の間に、多くの笑いと感動を届けてくれました。

彼の独特な感性と、お笑いへの揺るぎない情熱は、多くの人々の心に深く刻まれています。

卓也努力勝利さんの急逝は、お笑い界にとって大きな損失であり、ファンにとっては深い悲しみです。

しかし、彼が残した数々のネタ

そして「直球勝負で笑いを取りたい」というお笑い哲学は

これからも多くの芸人たち、そして私たちに影響を与え続けるでしょう。

彼の「笑いと涙の物語」は、ここに一度幕を閉じますが、

その記憶は、私たちの心の中で永遠に輝き続けることでしょう。

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