火野正平さんは、俳優としてのキャリアだけでなく
その恋愛遍歴や独特な人間性でも注目を集めました。
彼が女性にモテ続けた理由、そして法的には離婚しなかった背景。
複雑な家庭環境の中で築かれた家族との絆など。
本記事では、離婚や恋愛に加え、子供たちとの関係についても触れながら
火野正平さんの人生を解説します。
目次
火野正平のプロフィール
- 本名:二瓶康一(にへい・こういち)
- 生年月日:1949年5月30日
- 出身:東京都目黒区
- 身長:168cm、体重:56kg
芸能活動の軌跡
デビュー時代
12歳で劇団こまどりに所属し、1962年にフジテレビ系ドラマ「少年探偵団」でデビューしました。改名の経緯
1973年、池波正太郎が名付け親となり「火野正平」と改名。「火のように力強く」という願いから「火野」、池波正太郎の「正」から「正平」という名前が付けられました。
代表作品
テレビドラマ
- NHK大河ドラマ「国盗り物語」(1973年・羽柴秀吉役)2
- 「必殺シリーズ」
- 「長七郎江戸日記」
- 「芋たこなんきん」
映画
- 「Fukushima 50」(2020年)
- 「空海-KU-KAI-美しき王妃の謎」(2018年)
- 「罪の声」
火野正平の離婚歴
火野正平さんの離婚歴は、彼の複雑な人生を象徴する一面として語られます。
- 1971年
- 一般女性と結婚(当時22歳)。この結婚で1男1女が誕生。
- 1972年
- 結婚生活は1年で事実上終了し、夫婦は別居を開始。
- 1982年
- 内縁の妻とされる元宝塚スターの所属事務所社長と事実婚生活を開始。
- 内縁の妻との間に2人の娘が誕生。
火野正平さんの最初の結婚相手は芦屋の名門学校出身の一般女性でした。
1971年、22歳で一般女性と結婚し、この結婚で1男1女が誕生しました。
しかし、結婚生活はわずか1年で事実上終了し、1972年に夫婦は別居を開始しました。
それ以降も法的な離婚は成立せず、婚姻関係がそのまま継続されることとなりました。
火野正平さんは最初の妻と正式に離婚を望んでいましたが、妻が同意しなかったため離婚届が提出されなかったとされています。
この状況について火野さんは、「籍を抜いて今の母ちゃんを入れたいけど、最初の母ちゃんにも思うところがある」と語り、複雑な事情を明かしています。
火野は「籍を抜いて今の母ちゃんを入れてやりたいが、(最初の妻も)思うところがあるんだろう」と離婚はあきらめたようだ。
引用元:https://www.sanspo.com/article/20160126-5YIOSQJDEZMNJJJWMVMBCYYFVA/2/
最初の結婚で誕生した子供たちとは別居後に疎遠になりました。
- 実名は非公開
- 鳳蘭事務所の社長を務めていた
- 火野正平より5歳年下
- 2024年時点で70歳になる年
1982年には内縁の妻とされる女性との事実婚生活を開始しました。
二人の間に娘が2人生まれています。
内縁の妻との関係は35年以上続き、事実上の夫婦生活を送りました。
内縁の妻との間に生まれた娘たちは現在ジュエリーデザイナーとして活動し、火野さんとは良好な関係を保っています。
離婚が成立しなかった背景には複雑な価値観と人間関係が絡んでいるようですね。
歴代彼女が語る火野正平のモテる理由
火野正平さんは「昭和のプレイボーイ」として数々の女性たちと恋愛関係を築きました。
その魅力は彼自身の性格や振る舞いにあるようです。
歴代の彼女たちの声や火野正平さんのモテる理由を整理してお伝えします。
火野正平さんは「芯を持っている人」として知られ、自分の生き方を貫いています。
別れた後、女性の悪口を言わないように心がけていました。
(1971年)最初の妻との婚姻中に交際開始。
この不倫関係が最初の妻との別居のきっかけとなっています。
(1977年交際が公になる)
「ただ一緒にいるだけでよかった」とコメント。
交際期間が短かったにもかかわらず、彼の素直で自然体な性格に好感を抱いていたと言われています。
火野さんは女性に対して「放っておけない」と思わせる存在でした。
自身をかっこよく見せようとせず、むしろ甘えるような態度が母性本能を刺激し、多くの女性を惹きつけました。
1978年に二人の熱愛が報じられ、関係が始まりました。
1979年、望月真理子さんは未婚のまま火野正平との子供を出産しました。
娘は「ひな」と名付けられ、火野正平は正式に認知しています。
望月真理子は2000年に50歳という若さで亡くなりました。
火野さんとの関係を振り返り、「あの人が真理子という女と暮らしてよかったと思ってくれるだけでいい」と語り、火野さんへの深い愛情を示しています。
火野さんは軽妙なトークと柔らかい言葉遣いで、相手をリラックスさせる天性のコミュニケーション能力を持っていました。
少年のような夢を語る姿勢が、女性たちに親しみを与えたとされています。
(1981年)ドラマの打ち上げがきっかけで関係が始まる。
仁支川峰子さんは「7番目の愛人」という立場でした。
交際期間は約半年でした。
別れ後も悪感情は残らず、「結構思いっきり話してますけど、正平ちゃん、ごめんなさ~い」とあっけらかんと笑って語れる関係を保っている。
「本当に優しい人だった」「別れた後も嫌な気持ちは全然残らなかった」と語っています。
火野正平さんは恋愛が終わった後も、相手を傷つけないように振る舞い、別れ際まで誠実でした。
彼のこの態度が、女性たちに嫌な印象を与えることなく、長く愛される理由となっています。
【相手を尊重する姿勢】
火野さんは常に相手を尊重し、相手が求めるものに応えようとする姿勢を持っていました。
この態度が女性たちの信頼を集め、彼の魅力を高めていました。
火野正平さんは自身の著書で「二股どころか、何股か分からないときもあった」と告白し
最高で11人との同時交際があったことを明かしています。
しかし、彼は「自分から別れを切り出したことはない」と語り女性たちとの関係は概ね円満に終わっていたとされています。
火野正平さんのモテる理由は、自然体な魅力、甘え上手な性格、柔らかいコミュニケーション能力、別れ際の誠実さ、そして相手を尊重する姿勢に集約されます。
これらの要素が、多くの女性たちに愛され続けた理由であり
今なお「昭和のプレイボーイ」として語り継がれています。
晩年の活動
2011年からNHK BSプレミアム「にっぽん縦断 こころ旅」の旅人として活躍し、中高年層から高い人気を得ました。
2023年には約14年ぶりとなる新曲「あかんたれ」をリリースし、全国ツアーも行いました。
2024年8月公開の「ラストマイル」が遺作となりました。
まとめ
火野正平さんの離婚歴は、単なるスキャンダルではなく、彼の価値観と生き方を反映したものでした。
その複雑な家族関係の中にも、相手への敬意と自由を大切にする姿勢が見て取れます。
火野正平さんは2024年11月14日に75歳で逝去されました。
ご冥福を心からお祈りいたします。
本記事を通じて、火野正平さんの人生が多くの人々の心に響くものとなれば幸いです。