【カンテレ社長】大多亮の経歴|月9東京ラブストーリープロデューサーが語る制作秘話

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数々の名作ドラマを生み出し、日本のテレビ業界を牽引してきた大多亮さん。

月9ドラマ「東京ラブストーリー」のプロデューサーとして知られる彼は、

フジテレビで専務取締役を務めるなど、業界トップとして活躍してきました。

現在は関西テレビ(カンテレ)の代表取締役社長に就任し、新たな挑戦を続けています。

本記事では、大多亮さんの経歴や、「東京ラブストーリー」の制作秘話、

そして現在の取り組みについて詳しくお伝えします。

ぜひ最後までお楽しみください!

大多亮のプロフィール

大多亮(おおたとおる)

  • 生年月日: 1958年11月3日
  • 出身地: 東京都台東区浅草
  • 最終学歴: 早稲田大学教育学部(1981年卒業)
  • 現職: 関西テレビ放送 代表取締役社長(2024年6月就任)

キャリア変遷

フジテレビ入社後の主な役職

  • 1981年: フジテレビジョン入社(報道局配属)
  • 1986年: 第一制作部(現ドラマ制作センター)へ異動
  • 2002年: 編成制作局次長
  • 2006年: 編成制作局ドラマ制作担当局長
  • 2007年: 執行役員編成制作局ドラマ制作担当局長
  • 2009年: デジタルコンテンツ局長
  • 2010年: クリエイティブ事業局長
  • 2012年: フジテレビジョン常務取締役
  • 2022年: フジテレビジョン専務取締役
  • 2024年: 関西テレビ放送代表取締役社長

大多亮の経歴とは?フジテレビ時代の華々しい実績

大多亮さんは、トレンディドラマという新たなジャンルを切り開き、視聴率30%を超える大ヒット作を

次々と生み出した名プロデューサーです。

フジテレビの「大多班」と呼ばれる制作チームを率い、当時のドラマ界を牽引しました。

そんな大多さんの経歴を紹介して行きます。

1958年、東京都台東区浅草に生まれた大多亮さん。

早稲田大学教育学部を卒業後、1981年にフジテレビへ入社し、報道局からドラマ制作の世界に進出しました。

1986年の第一制作部(現ドラマ制作センター)への異動をきっかけに、その才能が開花しました。

フジテレビでは「大多班」と呼ばれる強力な制作チームを結成し、編成制作局のドラマ制作部門の中でも大きな影響力を持ちました。

トレンディドラマというジャンルを確立し、視聴率30%超えの作品をいくつも生み出しています。

この成果は、彼の確かなキャスティング力や、俳優・音楽プロデューサーたちとの深い信頼関係が土台となっています。

特に、高校時代の同級生である小室哲哉さんとのコラボレーションで、音楽とドラマが一体となった作品を数多く制作しました。

代表作品

1990年代(プロデューサー時代)

  • 東京ラブストーリー
  • 101回目のプロポーズ
  • ひとつ屋根の下

2000年代(制作統括時代)

  • Dr.コトー診療所
  • 白い巨塔
  • 空から降る一億の星

2010年代(局長時代)

  • わが家の歴史
  • TOKYO コントロール
  • オリエント急行殺人事件

大多さんは、本当のプロデュースは「東京ラブストーリー」まではなかったと語っています。

トレンディドラマというジャンルを確立したことは、80年代から90年代の日本のエンタメシーンに革命を起こしたと言っても過言ではありません。

当時を知る視聴者にとって、大多さんが手掛けたドラマは、青春時代の思い出と直結しているのではないでしょうか。

現在でも語り継がれる作品を生み出した大多さんの功績には、改めて敬意を表したいですね。

大多亮の本当のプロデュースは「東京ラブストーリー」から

1991年に放送された「東京ラブストーリー」は、視聴率30%超えの記録を打ち立てるだけでなく、

社会現象を巻き起こした伝説的なドラマです。

この大ヒット作を生み出したのが、プロデューサー大多亮さんでした。

月9ドラマの地位を揺るぎないものにした「東京ラブストーリー」の成功の裏には、彼の徹底したこだわりと革新的な手法がありました。

「東京ラブストーリー」は、柴門ふみさんの原作漫画をベースに新人脚本家の坂元裕二さんが脚本を担当しました。

キャスティングには、織田裕二さんと鈴木保奈美さんという当時フレッシュな俳優陣を起用しています。

この結果、最終回の平均視聴率は32.3%を記録。

月曜の夜9時になると街から人が消える、と言われるほどの社会現象を巻き起こしました。

ドラマの成功を語る上で欠かせないのが音楽の存在です。

「東京ラブストーリー」の主題歌である小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」は、ドラマのイメージに合わせて制作されました。

その特徴的なギターイントロは、深夜のレコーディング中に偶然生まれたものだそうです。

音楽とドラマのイメージを完璧に融合させるという大多さんのこだわりが、この作品をさらに魅力的にしています。

また、大多さんは同年に手がけた「101回目のプロポーズ」でも、CHAGE&ASKAの「SAY YES」を主題歌に起用。

ドラマと音楽の相乗効果を重視したこの手法が、2作連続での大ヒットにつながりました。

この2つの成功により、月曜夜9時の「月9枠」は特別な時間帯としての地位を確立しました。

小田和正さんの「ラブ・ストーリーは突然に」やCHAGE&ASKAの「SAY YES」は、今でもカラオケや音楽番組で愛される名曲です。

特にこれらの曲は、当時の視聴者にとって「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」と一体化して記憶に残っている、まさにドラマの象徴とも言える存在です。

これらの楽曲をドラマと見事に融合させた大多亮さんのプロデュース力には驚かされます。

でも、あの曲は早くできた。ちょうど、『Oh!Yeah!』のレコーディングをしていた最中に作ったんだ」

大多亮が語る「東京ラブストーリー」制作秘話

「東京ラブストーリー」は、1991年に放送され、多くの人々に愛され続ける名作として記憶されています。

その成功の裏には、従来のトレンディドラマとは一線を画す革新的なアプローチと、制作チームの奮闘がありました。

ここでは、大多亮さんが明かした制作の裏側を掘り下げて行きます。

「東京ラブストーリー」の大ヒットの鍵となったのは、原作とは異なる「リカ目線」のストーリー展開でした。

このアイディアがドラマに新鮮さを与え、視聴者を引きつける要因となりました。

原作者の柴門ふみさんから「ドラマとして面白いものを作ってください」という全面的な信頼を得た大多さんは、この言葉を新人脚本家の坂元裕二さんに伝えました。

そして坂元さんは、原作にはない「リカ目線」で物語を再構築。

この斬新な視点がドラマに深みを加え、結果的に大成功につながったのです。

一方で、制作過程では脚本の遅れに悩まされる場面もありました。

大多さんは「坂元さんとホテルに泊まり込み、書き上げたものをその都度FAXでスタジオに送り、そのまま撮影した」と振り返っています。

でも最後のほうは脚本が遅れてギリギリ……坂元さんとホテルに泊まり込み、書き上げたものからFAXでスタジオに送って、そのまま撮影。

当初は若手キャストの起用に不安の声もあったそうです。

しかし、小田和正さんの主題歌「ラブ・ストーリーは突然に」が加わった完成映像を見た瞬間、

大多さんは「手応えを感じた」と語っています。

この主題歌と映像の融合は、作品の魅力をさらに高め、多くの視聴者の心に深く刻まれる結果を生みました。

原作に忠実でありながらも、新しい「リカ目線」の物語を作り上げた坂元裕二さんの脚本も見事でしたね。

カンテレ社長大多亮の現在の活動

2024年6月、大多亮さんはフジテレビの編成担当専務取締役を退任し、関西テレビ放送の代表取締役社長に就任しました。

現在、放送業界での経験を活かし、関西テレビの経営改革に取り組んでいます。

2025年1月22日、大多社長は新年の定例社長会見を開催。

会見の冒頭では、年末年始の番組『旬感LIVE とれたてっ!』の好調や、関西万博への協賛、

マスコットキャラクター「ハチエモン」のグッズ展開を発表しました。

地域密着型の取り組みが注目を集めています。

その後、中居正広氏に関する問題についても言及しました。

2023年6月のフジテレビ専務時代から問題を把握していた中居正広氏の案件について、

「非常に重い」と言及。

CM差し替え問題を受け、社内調査の実施とガバナンス強化を表明しました。

フジテレビの制限的な会見とは異なり、質問や取材の制限を設けず、透明性を重視。

情報公開への積極的な姿勢は各メディアから高く評価されました。

まとめ

大多亮は、フジテレビの黄金期を支えた立役者として、トレンディドラマの確立に大きく貢献しました。

特に「東京ラブストーリー」の成功は、ドラマと音楽の融合という新しい形式を確立し、その後の日本のテレビドラマに大きな影響を与えました。

プロデューサーから経営者へとキャリアを発展させ、現在は関西テレビ放送の社長として、新たな挑戦を続けています。

彼の功績は、日本のテレビ史に大きな足跡を残したと言えるでしょう。

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